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寛永14(1637)年の『洛中絵図』をはじめ多くの絵図、町鑑には、「材木町」がみえ、異称はない。町名由来は、『坊目誌』がいうように、「材木町は京都諸所にありて、堀川の東岸に貯蔵所を設け、各所において販売す。この商家のある所を皆、材木町と称す。」ということであるが、『祇園社記』に記載する応永年間の「材木屋名簿」にはない。
ここには村上天皇の第7皇子で村上源氏の祖の具平親王の千種殿があった。東は室町小路、西は西洞院大路、南は六条坊門小路、北は樋口小路に囲まれた大邸宅だった。紫式部の父で文人であった藤原為時も、伯父の為頼も、具平親王と母方の親類であったことから学問のグループ「千種グループ」に参加していた。このグループの先生は千種殿の南隣の「池亭」に住んでいた慶滋保胤であった。彼は『池亭記』に、「占って鴨川の近く(東京極大路)に住めば、洪水で亀や魚と友達にならなくてはならない」「右京は人家が稀で、殆んど幽墟だ」などと書いていた。紫式部も父とともに千種殿に出入りしていた。「光源氏と夕顔」のモデルは「具平親王と雑仕女の大顔」で、「なにがしかの院」は通説の嵯峨源氏源融邸「河原院」ではなく村上源氏具平親王の千種殿だろう。しかし、「夕顔の宿」は「高辻西洞院西北角の乳母の家の西隣」だと言う角田文衛説(『紫式部の世界』法蔵館刊)は、俊成社のときに、「俊成とは何の関係もない」と失礼な言い方をしたのと同様、夕顔町の伝承を無視し、「そのわたり近き」の距離を間違え、光源氏が「大路に牛車を置いていたのに小路に置いていた」と言い、7m近い「小路が牛車に通行不便」と言うなど、強弁が多い。
院政初期に、院の近臣、大江匡房が美作守の時の富をもとに、この町の西側の千種殿の半分、新町から西、西洞院から東、六条坊門(五条通)から北、樋口小路(万寿寺通)の南の範囲を手に入れた(千種殿全部を手に入れたという説もある)。そして、江家文庫を造り万巻の書を蒐集していた。匡房が、「絶対に焼失することはない」と自信をもって語っていたのに、「仁平3(1153)年4月15日1時頃、五条坊門(仏光寺通)の南、烏丸の東から出火し、北風がしきりに吹いて炎が広がり、南は六条、東は東洞院、西は西洞院までも灰塵に帰した。江家十代の書庫も手をつけられず、万巻の書物があっという間に灰になった。」と日記や歴史書に記録されている。この火災で、町の東側の南部にあった近衛天皇の皇后藤原多子の御所も焼失した。
その約 50年後には、同じく東側の南部に、後白河法皇の妃丹後局高階栄子の邸宅があった。これは、承元元(1207)年4月30日の火事に丹後局の宅が焼亡したという藤原定家の日記『明月記』でわかる。
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